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PROFILE Dio (ディオ) 本名: こばやし あつし 1972(昭和47)年、石川県志賀町生まれ。羽咋工業高デザイン科を卒業後、テレビカメラマンに。その後、イベント会社への転職をきっかけに、パフォーマーとなる。現在、アメリカ・ディズニーワールドのショー「ムーラン」やボリショイサーカス、台湾雑技団など多数のサーカスやショーで活躍する。 |
アメリカ・ディズニーワールドをはじめ、ロシアのポリショイサーカスなど、世界屈指のサーカス団で活躍する小林睦史は、石川県生まれのパフォーマーである。芸名はDio(ディオ)。
超一流の人材が集う、アメリカの名門サーカス学枚「サンフランシスコ・スクール・オブ・サーカス・アーツ」に、昨年、日本人として初めて入学を果たした。現在、世界のサーカスで活躍する日本人は、小林が唯一といわれるほどの存在だ。
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金沢市の竪町商店街にあるダイヤモンドホールで開催された「Hakugin」ショーには小林に続くパフォーマーを育成する狙いもあった。 |
6月24日、小林は金沢市の竪町商店街にあるダイヤモンドホールで開かれたパフォーマンスショー「Hakugin」に出演していた。「Hakugin」とは、小林が主役を務め、ラスベガスのホテルなどでロングラン公演しているショーの題名である。
今回披露したのは、このラスベガスのショーをアレンジしたもので、小林を慕って集まった地元のアマチュアも参加している。
彼に続くパフォーマーの育成も、このイベントの一つの目的だった。
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わずか10数秒間の綱渡りのため、小林は6キロ減量し、ショーに臨んだ。 |
ショーの直前、衣装を身につける。本番で仮面を被るのは、観客の注目を「体技」だけに集めたいからだ。表情に逃げないパフォーマーとしてのストイシズムが、小林の仮面ににじむ。 |
この日、ステージに立った小林は、次々と荒技を繰り出した。
両手にたいまつを持ったままの綱渡り、たいまつの火をのみ込んで消すファイヤーイーティン
グ、さらに4つのリングをあたかも生き物のように操るアメリカ仕込みの芸などである。
わずか10数秒の綱渡りのため、小林は6キロ減量してショーに隠んでいる。披露する芸がさら
に高度な空中ブランコなら、10キロ以上も減量しなければならなかったという。
パフオーマーとしてデビューして8年が過ぎた。
激しいショーを繰り返すうち、小林はヘルニアが持病になっている。ステージ上の華魔さとは裏腹に、酷使してきた肉体は、悲鳴を上げているのだ。これ以上悪化させれば、パフオーマーとして命取りにもなりかねない。それでも小林は、細く長いタイトロープの上を歩き続ける。
「世界の最高峰で身につけた芸を、日本のお客さんに見てもらいたい。ただ、それだけです」
それは、世界的に活催する屈指の日本人パフオーマー、小林の使命なのかもしれない。
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<上写真>イスの上で片手だけで体重を支えるハンドバランス。通常はイスを5段に組んで行う。 |
ムチの名手と同居生活
サーカスの世界では、もの心つく前から芸を仕込まれることは決して珍しくない。小林がパフォーマンスと出合ったのは、20歳のときだ。遅い出発だったといえるだろう。
羽咋工業高デザイン科を卒業後、上京した小林は、テレビ番組制作会社に入社してテレビカメラマンになる。だが、徒弟制度が根強く残るこの世界は、水が合わなかったようで1年後に退職し、友人が立ち上げたばかりのイベント会社に転職する。
当初、小林はデザインの才能を生かして大道具を作っていたが、ほどなく自分でもイベントを企画するようになった。
最初に手樹けたイベントがウェスタンショーである。ショーといえばラスベガス、と漠然と考えていた小林は、ムチの名手と呼ばれたアメリカ人を、ここから招く。「来日後、たまたま彼と飲みに行く機会があり、おおいに盛り上がりました。酔っ払った彼はそのまま私の部屋に泊まり、以来、どうしたわけかそのまま居ついてしまったのです(笑)」同居生活が始まると、やがて彼は「アメリカでは女性アシスタントに的を持ってもらっている」と切り出した。早い話が、小林に的を持ってくれ、というのだ。
こうして小林はムチの的としてショーに出演するハメになる。そのお礼のつもりだったのか、閉演後彼は、さまざまな芸を小林に教えてくれた。ムチの的に過ぎなかった小林が、ショーの前座として出演するようになるのは、それからしばらく後のことだ。
予期せぬ初舞台
二人三脚の生活が半年にもおよんだころ、事件が起こる。このパフォーマーがビザの関係で、イベントの予約を残したまま、突如、帰国してしまったのである。スケジュールは2カ月先まで埋まっていた。もしキャンセルすれば、膨大な損害が予想される。責任者だった小林が青ざめたことはいうまでもない。「だったら、自分がやってやろうじやないか」前座としてだが、舞台にはもう慣れていた。パフォーマー直伝の芸もある。損害賠償を請求されるよりマシじやないか、と計算したわけである。しかし、いざ、ステージに立ってみると、小林の目論見はあっけなく崩れていく。「実は、このとき私がものにしていた芸は、たったの4つでした。それぞれ訓与訓秒の芸で、2分もあれば終わってしまいます。それなのに30分のショーを乗り切ろうというのだから、どだい、むちゃな話だったんです」「初舞台」はデパートのイベント会場である。200人を超す観客が今や遅しと開演を待ち受けていた。しかし、いざ小林のショーが始まると、観客は1人、2人とまるで潮が引くように、姿を消していった。
「客が次々といなくなるのに、逃げ出すわけにもいかない。頭の中は真っ白で、いままで感じたことのないような恥ずかしさを覚えました。同時にショーの厳しさと難しさを思い知ったんです」この屈辱的な初舞台はかえって小林の負けん気に火をつけた。
きっかけはともかく、たとえ1度でも観客から拍手をもらわなければ、辞めることはできない
。それは小林なりの意地だったに違いない。ちょうど20歳を迎える年だった。
命懸け空中ブランコ
その日から、師匠のいない1人ぼっちの修業が始まった。手本を求めて、ありとあらゆるショーやイベント会場へ足を運び、テレビカメラマン時代の経験を生かして、パフォーマーたちの動きをハンディカメラに収めた。これをコマ送りで再生し、細かな動きを研究する日々が続く。深夜、ビルの屋上や倉庫の片隅で、ムチを振るい続けたことも数知れない。4つしかなかった芸は次第に増え始め、やがてムチ以外のパフォーマンスにも取り組み出す。のめり込んだ小林は、イベント会社も辞め、パフォーマーが本業になっていった。仕事はイベント会社時代の知人が回してくれたが、それだけでは生活できない。時折、東京ディズニーランドでぬいぐるみに入るアルバイトもして糊口をしのいでいた。そんな矢先に行われた、ある新車の発表イベントが小林に転機をもたらす。イベント会場には新車がずらりと並び、その上を空中ブランコが舞うショーが予定されていた。同時に、宣伝用の撮影も行う手はずだったが、
開始直前、問題が持ち上がる。万が一の事態を想定して張られた安全ネットが、肝心の新車の車体に映り、このままでは撮影できないことがわかったのだ。
主催者側は恐る恐る、居並ぶ参加者たちに申し出た。「安全ネットなしで空中ブランコに乗ってもらえないか」。参加者の中には、サーカスで活催したベテランもいた。しかし、だれも首を縦に振らない。なにしろ地上6メートルの高さである。ネットがないと万一の事態でどうなるかは明らかだった。
気まずい雰囲気の中で、ただ1人手を挙げたのが、この空中プランコに出るため参加していた小林である。危険極まりない賭けとも思える。しかし、小林はきっぱりと、決して賭けではなかったと否定した。
「必ずやれる自信があった。いつも練習でやっていたこと。ネットがあろうとなかろうと、できるはずだと思ったのです」
屈辱の初舞台から数年の歳月が流れていた。その間、地道に続けてきた修業の成果がやっと日の目を見る時がやってきたのだ。満座が息をのむ中で、無名のパフオーマー小林は、見事に空中ブランコを飛び終えてみせた。
これ以後、小林は「命懸けの空中ブランコを成功させた男」として、発表会で使われたオリジナルキャラクターの名前から「DIO」と呼ばれていく。
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10歳ごろの小林(右)と弟・克嘉。実家は看板店で、少年時代は「家業を継ぐ」と漠然と考えていた。後年、弟は兄を追うようにピエロの道を歩き始める。 |
羽咋工業高卒業後、「映像に対する興味」からテレビカメラマンになった小林。この時の経験がやがて、師匠のいない修行時代に生かされていく。 |
過信が生んだ事故
小林のもとには、続々と仕事が舞い込み始めた。危険な仕事もずいぶん多かったが、危険度が高い分謝礼も高額で、20代前半の若者としては破格の収入も得た。
「当時は、まるで宝クジに当たったようなものでしたね(笑)。それで少々、有頂天になってしまったんですよ」
このころ、小林は3メートルのムチを自在に操ることができた。他のパフオーマーの追随を許さない芸だ。現在ではさらに伸びて6メートルのムチを使う。これだけの長さを操れるパフォーマーは、世界を探しても5人いるかどうかである。そんな自信が過信となり、やがて一つの「事故」を生む。
ある日、小林は客の1人に煙草をくわえさせ、それをムチで叩き落とすパフォーマンスを繰り広げていた。そのさなか、ムチを撮る手元が微妙に狂い、客の鼻を切ってしまつたのである。
幸い大事には至らず、客もまた快く許してくれたものの、この失敗は小林の心に深い傷痕を残す。この時を境に、ムチの名手が肝心のムチを使えなくなってしまったのだ。
1997(平成9)年、小林は石川県に帰郷し、金城短大に入学している。パフォーマーとして頂点を極め、次の目標として教員免許取得を掲げた形だが、本音は「パフォーマンスの世界から逃げた」のだった。事実、このころ小林はこの世界から足を洗うことを半ば決意していた。
同じ年、そんな小林のもとに皮肉な吉報が届く。世界にも類を見ない小林のムチ・パフォーマンスが海外イベンターの目に止まり、世界の精鋭が集まる「インターナショナル・トップ・エンターテイナー・ツアー」の日本代表に推挙されたのだ。小林はアメリカで開かれた世界大会の大舞台に立つが、この時以外、ムチを手にしていない。小林の負った心の傷は「日本代表」の栄冠だけでは癒されなかったのだろう。
「子供たちの笑顔が勇気を与えてくれた」
こうしてパフォーマンスの世界から距離を置いた小林だったが、どうしてもショーから離れることはできなかった。この道で名を轟かせた「Dio」の名を捨てた小林は、代わってピエロの「ジョーカー」を名乗り、学業のかたわら石川県内の幼稚園や保育所の慰問を重ねていく。「派手なパフォーマンスをしなくたって、ピエロとして子供たちを笑わせることはできるのではないか、と思ったんです。心の底からショーが好きだったんでしょうね」
金城短大在学中の2年間、小林は全国47都道府県をまわるチャリティー・ツアーを敢行している。手弁当で全国の街頭や幼稚園などへ赴き、風船を使ったバルーンアートなどの芸を披露したのだった。周囲からは「偉いね」としばしば声をかけられた。が、小林は「逃げているだけなのに」という忸怩たる思いが拭えなかったという。
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パフォーマーの世界で名を轟かせた「Dio」の名を捨て、「ジョーカー」を名乗っていた1997年ごろの小林(右)。ショーの最中に起きた事故で負った深い心の傷を、ピエロのメークで隠していた雌伏の時代である。 |
アメリカの学校を慰問した小林(前列左)。パフォーマーとして確固とした地位についたいまも小林はチャリティー・ツアーを続けている。 |
「子供たちは、つまらない芸だと、はっきりと面白くないと言います。大人たちのように愛想笑いはしません。でも、ひとたび子供たちが笑った時、その笑顔には周囲の大人たちも巻き込む、もの凄いパワーがあります。そんな彼らの笑顔をもっと見たい。そう考えた時、私はこれまで血を吐くような思いで練習してきたパフォーマンスを再びやるしかない、ということに気づきました。子供たちの笑顔が私に勇気を与えてくれたのです」
同じ時期、小林の周囲には彼の活動に感銘を受け、芸に取り組みたいと望む若者たちが集い始めている。8歳年下の当時高校生だった弟・克嘉もその1人だ。彼らはやがて金沢で開催されたショー「Hakugin」の中核メンバーになっていく。雌伏の時代にあった小林は、自ら意識することなくパフォーマンスの種を蒔いていたわけだ。
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金沢市の竪町商店街をステージに見立て、6月24日に開催したイベント「Wa」は、小林の発案だ。ショー「Hakugin」のほか、元X-JapanのTOSHIも小林の呼び掛けでミニ・ライブを開いた。イベント当日、小林は主催者として、出演者やスタッフに説明を行う。 |
「パフオーマーのままでは終わらない」
短大を卒業した1999(平成11年)、小林はアメリカヘ渡る。47都道府県チャティー・ツアーを続けるうち、パフォーマンスの世界に言葉の壁など存在しないことを知ったからだ。心の傷が癒されれば、そもそも小林は日本屈指のパフォーマーである。どうせなら世界に挑戦してみよう。そう考えた上での決断だった。
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金城短大を卒業した1999年、英語を学ぶためアメリカのコロンビア・カレッジに赴く。 |
率先して裏方の仕事に汗を流す小林。彼が行うアクロバットはパフォーマンスは、常に命懸けだ。それゆえ、ステージの設営は人任せにしない。自分の命がかかっているからだ。 |
アメリカへ飛んだ小林は、1年間英語を学んだ後、2000(平成12)年、難関を突破して「サンフランシスコ・スクール・オブ・サーカス・アーツ」に入学を果たす。目隠しした状態で両手にたいまつを携え、タイトロープ上で空中1回転を決めたパフォーマンスを認められての入学だった。以後、ディズニーワールドの「ムーラン」のショーでは、馬上で軽業を見せる山賊役にふんするほか、ポリショイサーカス、台湾雑技団、シルク・デュ・ソレイユ(カナダ)など世界有数のサーカス団にフリーの立場で参加。最近ではテレビ番組のパフォーマンスに関するアドバイザーを務めるなど多忙をきわめる。
「私がアメリカで最も感動したのは、観客を楽しませずにおかないパワーあふれるエンターテイメントショーでした。そこには、サーカスのような、パフォーマンスから、繊細なマジック、あるいはダンスや歌まですべて含まれています。日本ではパフォーマー、マジシャン、ダンサーなどに分けられてしまいますが、私は全てを統括したエンターティナーになりたい。いちパフオーマーのままでは終わりたくないのです。日本ではまだなじみの薄い分野で、道のりは平坦ではないでしょうが」
小林が6月に金沢で演出した「Hakugin」は、彼が目指す「エンターティンメント」の世界を伝えるのに十分な内容だった。「今度はプロになった今回の参加者らと、一緒にショーをやりたい」
そう語る小林の目は、エンターティナーにぴたりと照準を合わせているようだった。
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<上写真>小林が演出したショーには、サーカス並みのパフォーマンスのほか、繊細なマジックや歌、ダンス、コントがぎっしりと詰まる。両側の女性は地元ダンサーで、小林直伝のアクロバット芸を披露し、場内のかっさいを呼んだ。小林の愛弟子といっていい。 |