これまでの道のり
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これまでの道のり


Dioは1972年に石川県の志賀町にある看板屋のもとで生れた。不幸にも生後間もなく当時原因不明の病(川崎病)を患い生死の境をさまよう闘病生活がDioの人生の始まりとなった。

運良く一命をとりとめたものの再発の怖れがあると中学生まで体育授業への参加は認めてもらえず運動神経もあまり良いとはいえない少年だった。中学の頃それをバカにされ悔しく思ったDioは少しでも運動ができるようになろうと合気道を始めたのだか、それがDioの負けん気の強さを育て、後の並外れた運動神経やバランス感覚に繋がっていくのだろう。


写真上: 幼い頃の兄弟 左弟チャーリー 右Dio
写真下: 高校時代修学旅行にて 右上 Dio

祖父の代から続く看板屋で育ったDioは自然に絵画の魅力にとりつかれ漠然と家業を継ごうと考え、羽咋工業高等学校のデザイン科に進んだのだが、美術の知識を積むにつれ平面アートから視覚的なものへの興味が沸きはじめ卒業後カメラマンとして就職することを決意する。



高校卒業後、上京したDioは、テレビ番組制作会社に入社しテレビカメラマンになる。だが、徒弟制度、学歴派閥が根強く残るこの世界に、高卒で田舎から上京したDioの居場所はどこにも無かった。耐えかね飛び出したDioをイベント会社を立ち上げたばかりの友人が拾う。当初、Dioはデザインの才能を生かして大道具を作っていたのだが、しだいにイベントを企画するようになった。


最初に手掛けけたイベントがウェスタンショーである。ショーといえばラスベガスと単純な考えでDioは、ムチの名手と呼ばれたアメリカ人をイベントに招いた。日本に感心を持っていたムチの名手、好奇心旺盛な新人イベントプランナー、なぜか意気投合し持ちつ持たれつの共同生活が始まった。このコンビでのイベントは好評で各地でこのイベントが開催される中、事件が起こる。

なんと、このパフォーマーがビザの関係でイベントの予約を残したまま、突如、帰国してしまったのである。スケジュールは2カ月先まで埋まっていた。もしキャンセルすれば、恩義のある友人のイベント会社に膨大な損害が予想される。責任者だったDioが青ざめたことはいうまでもない。前座やアシスタントとして度々彼のショーに出演していたDioは多額の損害賠償を請求されるぐらいなら自分が出演した方がマシと自分の出演を決意した。

しかし、いざ、ステージに立ってみると、Dioの目論見はあっけなく崩れていく。いざDioのショーが始まると、観客は1人、2人とまるで潮が引くように、姿を消していった。この屈辱的な初舞台はかえってDioの負けん気に火をつけた。

きっかけはともかく、たとえ1度でも観客から拍手をもらわなければ、辞めることはできない。それはDioなりの意地だったに違いない。

ちょうど20歳を迎える年にDioはパフォーマーとしての道を歩むことを決意する。










売れない芸人生活が続く中、ある新車の発表イベントがDioに転機をもたらす。イベント会場には新車がずらりと並び、その上を空中ブランコが舞うショーが予定されていた。同時に、宣伝用の撮影も行う手はずだったが、

開始直前、問題が持ち上がる。万が一の事態を想定して張られた安全ネットが、肝心の新車の車体に映り、このままでは撮影できないことがわかったのだ。

主催者側は恐る恐る、居並ぶ参加者たちに申し出た。「安全ネットなしで空中ブランコに乗ってもらえないか」。参加者の中には、サーカスで活躍したベテランもいた。しかし、だれも首を縦に振らない。なにしろ地上6メートルの高さである。ネットがないと万一の事態でどうなるかは明らかだった。

気まずい雰囲気の中で、ただ1人手を挙げたのが、この空中プランコに出るため参加していたDioである。危険極まりない賭けとも思える。しかし、Dioはきっぱりと、決して賭けではなかったと否定した。

「必ずやれる自信があった。いつも練習でやっていたこと。ネットがあろうとなかろうと、できるはずだと思ったのです」

屈辱の初舞台から数年の歳月が流れていた。その間、地道に続けてきた修業の成果がやっと日の目を見る時がやってきたのだ。満座が息をのむ中で、無名のパフォーマーDioは、見事に空中ブランコを飛び終えてみせた。

多くのイベンターが見守る中、命懸けの空中ブランコを成功させたDioはこのイベントによって一気に名を広めた。


Dioのもとには、続々と仕事が舞い込み始めた。危険な仕事もずいぶん多かったが、危険度が高い分謝礼も高額で、20代前半の若者としては破格の収入も得た。

このころ、Dioは3メートルのムチを自在に操ることができた。離れた場所に刺さった剣にムチを絡め宙に浮かし手元のサヤにみごと剣を納めるという他のパフォーマーの追随を許さない芸だ。現在ではさらに伸びて6メートルのムチを使う。これだけの長さを操れるパフォーマーは、世界を探しても5人いるかどうかである。そんな自信が過信となり、やがて一つの「事故」を生む。

 ある日、Dioは客の1人に煙草をくわえさせ、それをムチで叩き落とすパフォーマンスを繰り広げていた。そのさなか、ムチを撮る手元が微妙に狂い、客の鼻を切ってしまったのである。

幸い大事には至らず、客もまた快く許してくれたものの、この失敗はDioの心に深い傷痕を残す。この時を境に、ムチの名手が肝心のムチを使えなくなってしまったのだ。

1997(平成9)年、Dioは石川県に帰郷し、金城短大に入学している。パフォーマーとして頂点を極め、次の目標として教員免許取得を掲げた形だが、本音は「パフォーマンスの世界から逃げた」のだった。事実、このころDioはこの世界から足を洗うことを半ば決意していた。

 同じ年、そんなDioのもとに皮肉な吉報が届く。世界にも類を見ないDioのムチ・パフォーマンスが海外イベンターの目に止まり、世界の精鋭が集まる「インターナショナル・トップ・エンターテイナー・ツアー」の日本代表に推挙されたのだ。Dioはアメリカで開かれた世界大会の大舞台に立つが、この時以外、ムチを手にしていない。Dioの負った心の傷は「日本代表」の栄冠だけでは癒されなかったのだろう。

写真 何度も同じ箇所に積み重ねられた傷跡が生々しく今でも跡を残す

写真 多くの人を前に日本代表に推挙された時の事を語る


こうしてパフォーマンスの世界から距離を置いたDioだったが、どうしてもショーから離れることはできなかった。この道で名を轟かせた「Dio」の名を捨てたDioは、代わってピエロの「ジョーカー」を名乗り、学業のかたわら石川県内の幼稚園や保育所の慰問を重ねていく。「派手なパフォーマンスをしなくたって、ピエロとして子供たちを笑わせることはできるのではないか、と思ったんです。心の底からショーが好きだったんでしょうね」

金城短大在学中の2年間、Dioは全国47都道府県をまわるチャリティー・ツアーを敢行している。手弁当で全国の街頭や幼稚園などへ赴き、風船を使ったバルーンアートなどの芸を披露したのだった。周囲からは「偉いね」としばしば声をかけられた。が、Dioは「逃げているだけなのに」という忸怩たる思いが拭えなかったという。

「子供たちは、つまらない芸だと、はっきりと面白くないと言います。大人たちのように愛想笑いはしません。でも、ひとたび子供たちが笑った時、その笑顔には周囲の大人たちも巻き込む、もの凄いパワーがあります。そんな彼らの笑顔をもっと見たい。そう考えた時、私はこれまで血を吐くような思いで練習してきたパフォーマンスを再びやるしかない、ということに気づきました。子供たちの笑顔が私に勇気を与えてくれたのです」

 同じ時期、Dioの周囲には彼の活動に感銘を受け、芸に取り組みたいと望む若者たちが集い始めている。8歳年下の当時高校生だった弟・克嘉もその1人だった。


心の傷が癒されれば、そもそもDioは日本屈指のパフォーマーである。

Dioは本来のDioスタイルでのチャリティーツアーを決行し多くのマスコミが彼の復活を取上げた。

その時すでに彼の中には新たな目標があった。それは今まで日本人パフォーマーのだれもがなし得たことのない世界レベルのパフォーマンスへの挑戦である。その壁に向かってDioは短大を卒業した1999(平成11年)アメリカヘ渡った。

コロンビアカレッジで1年間英語を学んだ後、2000(平成12)年、難関を突破して

「サンフランシスコ・スクール・オブ・サーカス・アーツ」で行なわれたサーカスのオーディションに日本人で初めての通過を果たす。目隠しした状態で両手にたいまつを携え、タイトロープ上で空中1回転を決めたパフォーマンスを認められての入学だった。以後、ディズニーワールドの「ムーラン」のショーでは、馬上で軽業を見せる山賊役にふんするほか、ポリショイサーカス、台湾雑技団、シルク・デュ・ソレイユ(カナダ)など世界有数のサーカス団にフリーの立場で参加。最近ではテレビ番組のパフォーマンスに関するアドバイザーを務めるなど多忙をきわめる。

「私がアメリカで最も感動したのは、観客を楽しませずにおかないパワーあふれるエンターテイメントショーでした。そこには、サーカスのような、パフォーマンスから、繊細なマジック、あるいはダンスや歌まですべて含まれています。日本ではパフォーマー、マジシャン、ダンサーなど分野に分けられてしまいがちですが、それはお客さんを楽しますのには不要な垣根です。私は全てを統括したエンターティナーになりたい。いちパフォーマーのままでは終わりたくないのです。日本ではまだなじみの薄い分野で、道のりは平坦ではないでしょうが」彼の挑戦は果てしなく続く。


待ち受けていた人生のセカンドステージ

彼の職場には、いつも客席でショーを眺める家族のあふれんばかりの幸せな笑顔がある。
そんな笑顔は子供好きの彼の心を時として誘惑した。
自分の未来がとても不安に思えて定住の地を求めたい…
といった強い衝動的な感情が彼の心を襲う。
彼は映画の完成披露パーティーに招かれた。
そこには同じ思いを心に持った女性が出席していた。
同じ思いを持ったもの同士ということもあり、惹かれあう二人にはお互いを拒む理由は何もなかった。
一緒にいるとより衝動的な感情が強まり、その気持ちは結婚という二文字を意識したものと変わるのに時間を要しなかった。
それを運命付けるかのごとく、子供を授かり二人の夢はどんどん膨らんでいきました。
しかし、その幸運な知らせはお互いに大きな決断を試練として与えたのだ。
彼の仕事は常に危険が付いてまわる、さらに世界各国を移動する彼の仕事には家族の時間がもてない。
彼女もまた同じ問題を抱えていた。
それは彼らに新しい人生のスタートとして、今までの仕事への終止符といった代償を与えたのだ。
子供を授かり、安住の地を求めていた彼らにとってNOといった選択肢はなかった。


しかし、その決断こそが後に待ち受ける彼らにとっての大きな災いの種となった。
お互いに目標としていた道を志半ばに急に変えたことが、お互いの心に不安という感情をつくっていった。
その気持ちがしだいに大きくなり自分らしさを失い、しだいに愛情にもすれ違いが出始めることとなる。
輝ける場を失った2人にとって、お互いへの魅力はその記憶からも薄れてく結果を生んだ。
そして、しだいに2人の愛情は子供へのものだけへと変化していった。

子供の幸せのためにと数回にわたり彼は軌道修正を試みたのだが、結果は空しくも必然的に道は離婚という方向へと向かう。




離婚が成立し彼と子供との新しい生活が始まったのだが、この生活は更に多くの新たな問題を彼に投げかけてきた。3才の幼い子供を養いながらの生活は彼の行動を大きく制限する。
そんな中、彼は子供に自分自身が今まで生きてきたサーカスパフォーマーとしての道を子供に繋いであげたいと現役復帰を決意する。30歳を越えた彼にとって一度離れた現役サーカスプレーヤーに戻るのは肉体的にも容易なことではなかった。
そんな彼を支えたのは、彼が現役時代に携わったテレビアニメ『カレイドスター』であった。
彼 はこのアニメにサーカスアドバイザーとして参加。彼のサーカスでの多くの経験がこのアニメの脚本として活かされている。彼はこの作品への参加を生まれてく る子供へのプレゼントとなればといった想いから引き受けている。この作品は主人公が海外のサーカスで主役への座に上り詰めていくサクセスストーリーを描い たアニメなのだが、主人公のような道を自分の子供に見せてあげたいといった夢が彼の新たな道へ向かう原動力となっている。
そして彼は、ホームページの日記の中でこのことをこう綴っている。

---------彼の日記より---------------

子供と過ごす毎日は、あっという間に過ぎていくのですが、 その中にも日々の成長や変化を感じる事がたくさんあります。
初めてのことがほとんどで、ぐったり疲れて一緒に眠りこけてしまう日もあるのですが、純粋で無邪気な笑顔に支えられ、愛しい子供と過ごせる幸せをひしひしと感じ、過ごす毎日です。
『守るべきものを持った者は命に代えてでも何でもできる』
という親の気持ちを身をもって実感しました。
常に危険と背中合わせの仕事の中で 今まで以上に失敗ができないといったプレッシャーを感じると同時に、自分の子供からの視線を受け、これまでとは違った新たな気持ちで仕事に取り組むことができています。
幸いなことに、今のところ娘の夢は
「パパみたいになりたい」
とのことなのでこの気持ちを大切に育てて、いずれ僕が今歩いている道のバトンを渡せればいいなぁ〜。
この三年間いろんな事があり失ったモノも多いですが、それ以上にかけがえのないモノを得たと心から実感しています。

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彼の復帰は子供に支えられ力強く前進ししはじめた。
だ がその血を引く彼の娘も負けていない。サーカスや雑技団では幼い子供がパフォーマンスを披露する姿はそんなに珍し事ではなくその多くが3歳ぐらいから練習 に取り組むのだ。サーカスプレーヤー復帰に挑む父の環境のもとで育つ彼女にとっては、遊び場も父とのコミュニケーションなども全てが自然に彼女自身へのト レーニングとなっている。彼女は3歳にして簡単な柔軟技、鞭、アクロバットなどをすでに身につけ、時々、彼のステージにも登場する。

そんな2人を見ていると、彼の描く夢がそんなに遠くないものであると感じさせられる。







続く....

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